2024.7.18 僕は宮島線廿日市市役所前から市電に乗って広島市にむかった、約40分ばかりだろう。連結付近に席をとってNHKテレビテキスト100分de名著「アインシュタイン相対性理論」を読む。
 それぞれの見方で違っていい。つまりは、相対的なのだから。相対の反対語は「絶対」かな。
 P17の 「どうしても解けない光の謎」。ここまで読んだら、市電は「原爆ドーム前」に着いた。料金260円を現金で払う。原爆ドームから元安橋を渡らずに僕は相生橋に足をむけた。この日は梅雨明けだろうか青空に白い雲。通常のルートは歩きたくなかったから。天気や気分に合わせること。つまり相対的であること。その実践。とか思うのは夏のせいだけではない。

 広島平和公園

 ↑相生橋の上からスマホで原爆ドームと元安橋のある風景を写す。

 橋の上に修学旅行だろうか、男子中学生のグループが観光ガイド女性の話を熱心に聞いていた。
 橋を下って100㍍ばかり歩くと「平和の鐘」の前である。↓写真↓

平和の鐘

 昭和39年9月20日に「広島悲願の会」により建立された「平和の鐘」は真の平和共存の世界を達成を目指すもの。鐘の音を世界のすみずみに響かせる。

 親江会のアオギリ
 ↑筆者在住の、東京江戸川区のヒロシマ・ナガサキの被爆者を支援する団体「親江会」の平和を祈念するアオギリの樹は元安橋のたもとにある。広島出身の僕と妻もこの会の会員でもあり合掌した。

平和の灯

「平和の灯」は丹下健三氏の設計。反核と恒久平和が実現するその日まで燃やし続けられる。この灯の火種の一つが宮島弥山に1200年もの間燃え続けている「空海の消えずの霊火」である。
 密教を体得した弘法大師空海は唐から806年に帰国し弥山を開基。そこでの護摩行の際に灯した火がいまも宮島弥山大本山大聖院で護り続かれているこの霊火である。
 この他、火種は全国12宗派からも届けられた。
 この「空海の消えずの霊火」については、高村薫氏の『空海』に詳しいので以下に引用させてもらった。
 『「この消えずの火」の信仰は、羽黒山や立石寺、厳島の弥山に見られるものと同じであり、とくに弥山のそれは最も古い姿を残しているという。厳島は神の島であるが、人の常住を禁じていた時代にも弥山には霊坊があり、僧侶がいたということを記した文書が現存する。僧侶たちは弥山の頂上で護摩を修したようで、その火が龍燈の杉伝説ともなったが、火はやがて南北朝時代に建立された求聞持堂に移され、消えずの火となって今日の霊火堂に伝わっている。
 思えば、空海が生前に高野山で執り行った唯一の法会である万燈万華会も、本来は仏と山の神々と祖霊に燈火と花をささげるものものであった。信仰とは本来素朴なものだろうし、庶民の信心に至ってはなおさらである。素朴であるゆえに、燈明信仰と万燈会は21世紀になお生き続け、奥の院の燈龍堂を飾る無数の燈火は、日本人のこころの風景になっているのだと思う。』

平和公園慰霊碑

         原爆死没者慰霊碑
「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」
           合掌

 僕はその後、義父義妹の原爆被爆当時の遺影を見ることのできる「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」のB2「遺影コーナー」をのぞいてから、レストハウス2Fの「明子さんの被爆ピアノ」を3年ぶりに訪ねた。
 河本明子さんは、1945.8.6の当日、学徒動員で奉仕活動中爆心地から1キロの場所で被爆、翌7日夕方に19才の生涯を閉じた。明子さんの自宅のピアノも被爆しガラスの破片で傷つく。

被爆ピアノ


 レストハウスにはご婦人が一人アイスコーヒーを飲んでいた。僕は元安橋の見える窓際のテーブルの座り持参のペットボトルの紅茶を飲みながらDVDのピアノ演奏を聞きヒロシマを眺めていた。
 数ある「被爆ピアノ」「被爆ヴァイオリン」。演奏者の心持ちを想像してみる。僕はピアノは弾けないけど、被爆者だった三つ違いの従姉をいつも思い出す。伯母との約束を僕は守って、彼女の秘密を従姉に話さなかったし、彼女もそのことには気付かなかったのだと思う。先年、伯母も従姉も逝ってしまった。わからないままに、時は過ぎ、とうとうわからないままになってしまったことが、 なんとこの町には多いことだろうか。
 レストハウスに大勢の団体客だろうか。騒がしい話声がこの2階に上がってくる。
 僕はレストハウスを後にして、本川橋をわたり土橋にでた。遅い昼食を「むさし」本店で摂るのも当初からの目的の一つなのだ。店前に修学旅行バスがずらりと並んでいる。高校生たちがどんどん出てきてバスに乗りこむ。みんな笑顔で楽しそうだ。僕も笑う。笑うと涙もでる・・そんな年齢になったということだろう。
 「むさし」のおむすびはおいしいなー。そう、おもいませんか。
 絶妙の塩かげんなのだろうか・・↓

むさしのむすび